3月11日

天気 くもり 気温-6度
昨日は春の嵐でした。
昼頃より南風が強くなりリフトも運休が相次ぎました。
西高東低冬型気圧配置になりスキー場上部には雪雲が掛かってきました。
西風なのでところどころ青空ものぞいています。
東日本大震災から9年です。
お亡くなりになられた皆様のご冥福をお祈りすると共に、被災された皆様にお見舞い申し上げます。
被災された皆様は、まだ時間が9年前に止まったままだとお察しいたします。
志賀高原で初めてスキーを楽しんだのは1913年大正2年にドイツの貿易商のキンメル夫妻が上林でスキーをしたのが始まりとされています。
上林周辺の道路や畑の上で楽しんだようです。
そこへ旧制飯山通学でスキーを学んだ人や、上流階級のスキー熱が高まり滑る場所も上へ上へと登って行きました。
そこまでは野沢温泉や白馬村などと同じです。
人里があって雪が降るので周りの山でスキーを楽しむようになりました。
そこからが違いが出ました。
志賀高原をスキーのメッカにする分岐点でした。
江戸時代から発哺温泉には天狗の湯さんが、そして明治の初期から薬師の湯さんと熊の湯ホテルさんが夏の間だけ湯治場として営業をされていました。
標高1500-1600メートルの高地です。
今も昔も同じです。標高の高い方が雪質は良いです。
1929年昭和4年より押し寄せるスキーヤーのために冬も営業を開始ししました。
と簡単に書いていますが、当時はバスも走っていません。
発哺温泉に行く場合。上林からスキーを担ぎ、現在の白樺ルートからジャイアントの下の河原小屋に降りて西舘スキー場を登りスイスインさんの前を通ってようやくたどり着きます。
滑ると言っても冬山登山の延長です。
山を登って自分でコースを決めて滑ります。
その時代すでに岩菅山頂より滑ったり、熊の湯ホテルさんが冬季営業を始める前の1920年大正9年には早大生が渋峠でスキーを履いて遭難した記述が残っています。
続きは明日へ
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