3月27日

天気 うすぐもり 気温2度
ようやく曇ってくれました。強い南風が吹くと関東方面から雨粒が飛んでくる予報です。
快晴の方が良いと思われますが、この時期は太陽の入射角が夏より低くく真夏並みの紫外線が降り注ぎます。
おまけに雪で反射して室内でもサングラスが欲しいくらいでした。
今晩、明朝お越しになられるお客様へ
前線通過後冬型気圧配置に戻ります。
時間帯によっては道路は溶けていてもトンネル内は凍結した場所があります。
最後のスキーを楽しまれてください。
大勢のお客様のお越しをお待ち申し上げております。
志賀高原の歴史も本日で最後になります。
焼額山は1983年昭和58年にオープンしました。
余談ですが火山です。山頂には噴火口が池になり稚児池があります。
焼ける額とは誰が名付けたのでしょうか?
焼額を持っているのは湯田中の共益会と言う和合会と同じ組織です。
湯田中の皆さんも有志が集まり官地から民地に取り戻して財団法人を作り所有にしました。
湯田中地区もスキー場が欲しくて焼額を当時の国土計画に貸す条件で、今は無き五輪スキー場を作って貰いました。
湯田中より101人乗りのロープウェイで約1200メートルまで登り、6人乗りゴンドラ1基とリフト1本のスキー場でした。
たしか3本のコースがあり急斜面はリフト側にはありましたがロングランが楽しめるスキー場でした。
ただゴンドラの終点か広い平らな場所にありスキーならスケーティングで進めるのですが、ボーダーの皆さんは抱えて一段下がった場所まで移動して滑り始めです。
おそらく焼額とゴンドラで繋げるためにだとは思うのですが?社員に聞いてもバラバラの意見でした。
あの場所から焼額山頂までは何本か掛ければ繋がりますが、スキーコースとなると・・・・
焼額も当初はホテル1軒ゴンドラ1基リフト3本だけでコースも林間コースのみで、思ったところで曲がれない方はご遠慮ください。と案内していた記憶があります。
その後、オリンピック誘致にはワールドカップの開催が必要で選手の宿泊施設のために昭和62年に南館と第2ゴンドラなどを、そしてオリンピックでスノーボード競技が追加され選手村として西館などがオープンしました。
いつのまにか巨大なスキー場になりました。
1989年平成1年のワールドカップはスラローム(回転)はジャイアントスキー場、ジャイアントスラローム(大回転)は西舘で行い、焼額ではワールドカップの最終戦で、2人で同時に滑るデュアル競技が行われました。
当時のスキー場の雰囲気は、本当にここでオリンピック遣るの?の雰囲気でした。
現在のオリンピックコースなど尾根沿いの林間コースでした。
映画「私をスキーの連れて行って」をご覧いただければ当時の雰囲気が分かって頂けると思います。
志賀高原の魅力はスキー場のために計画開発され、しかも日本一の面積やリフト・ゴンドラの数も日本一です。
おまけに、だいたいのスキー場が片斜面なに、北向き東向きなどいろいろな斜面がありますのでバリエーションが豊富です。
よく「志賀はいいな」と言われますがスキーのために作ったリゾートです。
おまけに雪は少ない場所です。
重い雪は新潟に降って、その上の軽い雪だけ飛んで来て標高が高いので、軽い雪が長持ちする奇跡のスキー場です。
全山滑れるのもあと5日となりました。
まだ心残りで迷われて居られるお客様は「今でしょ!!」
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