12月13日

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天気 天気雪 気温-3度


現在、日が射して小雪が舞っています。
今晩から湿った南からの雪が予報されています。
雪の着きが悪い南斜面にとっては恵みの雪です。
そして前線通過後、関東の西で低気圧が急速に発達して強い西高東低冬型気圧配置が続きます。
この時期として一番理想的な天気です。

さて、高天ヶ原にリフトが掛かったのは1960年昭和35年になります。現在のクワッドリフトの場所にシングルリフトが1本掛かりました。
昭和35年と言いますと志賀高原ロープウェイや東舘山空中ケーブルと同じ年になります。
それまでもスキー場はありました。
リフトが掛かる前は現在よりかなり狭く、西館も狭いですがスキー場となっていました。
高天ヶ原の歴史は、昭和15年に作家の菊池寛や深田久弥などが、出版社の文藝春秋社に山小屋を立てさせたのが始まりです。
冬の暖房用のマキの調達もかねて、切り開いて行きました。
高天ヶ原山荘が出来たのが昭和27年ですが、当時はスキーは登って滑るものから、リフトを使って登って滑りだけを楽しむように変わって来ました。
当時は旅館で自前でリフトを掛けるしかなかった時代です。前にも書きましたが古くからのお宅は自前で掛けて行きました。
ところが昭和33年に、志賀高原を所有する地主の財団法人和合会員が「一部の会員による独占は如何なものかと」議論が持ち上がりました。
現在の志賀高原リゾート開発になったのも、最初のボタンの掛け間違いから始まりました。
進駐軍が掛けさせた丸池のリフトを地元が引き受けず、長野電鉄に譲渡した事が始まりになります。
地元で引き受けていれば、現在のリゾート開発のように大部分が1社で経営していましたが、引き受けなかったばかりに各旅館で始めた小さなリフト会社ばかりになりました。
旅館にすればリフトが無ければスキー客に見向きもされず、死活問題になり,必死に掛けました。
ただそれが他の会員から見れば不公平と思ったのでしょう。
それで志賀高原観光開発の設立が決まりました。
財団法人は直接収益事業を行えませんので株式の過半数以上を所有して、残りは会員に平等に出資を募りました。
実は私の祖父はその時、和合会の理事でした。
理事をしていて、会員内部から会社設立の話が持ち上がり、高天ヶ原は自分で開発するとは言えない立場でした。
昭和34年に前山にリフトを掛けて次に、高天ヶ原そして行く行くは一の瀬と事業内容が決定されました。
昭和35年に高天ヶ原にリフトが掛かり、翌年には現在の第2トリプルリフトの場所に初心者用のシングルリフトも掛かりました。
最初に掛けたリフトには中間降り場もあったのですが、昭和36年より高天ヶ原寮地区に会社の保養所が立ちはじめて大勢のお客様が押し寄せて、初心者用のリフトも作られました。
次々とリフトを掛けて行きましたが「一部の会員による独占は如何なものかと!!」出来た会社でした。
続きは明日になります。


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